何故、言葉はウソをつくのか

 現在とのつき合い方は、一つしかない。過去を一切持ち込まないことである。それだけで、何でもでき、できなければ努力したくなる。

 努力する価値があるのが未来なのである。一方、過去は、無意識化されて身体にしまわれている。

 そのうえ過去を引きずると、過去にたいする過剰適応となって現在と未来が損なわれる。

 その過去も未来も、言葉の産物である。

 幻想から自由なのは、直感が向き合っているこの瞬間だけである。

 直感は”持続する瞬間”という非言語的な時空を自由に泳ぎ回っている。

 それ以外の時制は、言葉にとりつかれて幻想化している。「できっこない」「甘くない」という弱音は、われわれには"瞬間”という時間しか与えられていない、ということを忘れたもっとも愚かな幻想というべくであろう。

 いまこの瞬間以外は、すべてファンタジーである・

 ソニーの神話にも、可能か不可能かどっちかしかないのに、困難という言葉を間に入れて思考しているとあった。

 我々は、幻想の言葉遊びをしている。

 過去は存在しないのにかかわらず、過去の呪縛にとらわれる。ああすればよかった、こうすればよかった、5年前ああいうことを言われた、子供の頃ああいわれたと存在しないものの幻想を思い起こしては、悩む。

 そのいやな感情を浄化する方法がある。津留さんの本に書いてあるM2 というものだ。3分間ネットでもビデオで見られるが、詳しくは、英光舎で買っていただきたい。かなり使えるワザだ。

 感情が出てくるとは、どういうことか?実際に、その感情が形になって存在しているわけではない。それは、胸を開いてもその感情があるわけではない。

 イメージなのだ。その無くしたい感情を、胸からチューブで出すようなイメージをする。それを、手で持ち眼で見て、思い切り放り投げる。

 そして、もう一度胸にしまう。

 いやな感情を胸から出して、放り投げることをすることで、なんだかわからないがすっきりするのだ。

 その記憶がなくなるわけではないが、思い出してもその記憶とともにあった感情が薄れているのが感じられる。

 新しい本を並べるには、古い本は返品しなければならない。古い本があったら、新しい本は並べられない。最初に、返品することが大切。

 過去の感情は浄化しないと、新しい想いは入らない。

 そもそも、過去は幻想でいまは存在しないのに、過去にこだわる人が多いのは、言葉が過去を成り立たせているからなのだ。

 言葉で考えるな、感情でかんがえろ、それがフォースだ。

和尚

 心が鏡のようになったとき、私たちは神を見ることが出来るだろう。その時、全世界が私たちの中に入ってくる。そしてまた、全世界が私たちを写す鏡となる。

 すると、いつでもどこでも自分自身が見られるようになる。しかし、全世界を鏡とすることは出来ない。

 できるのは、私たち自身を鏡にすることだけだ。だからこそ、真理の探究者は自分を鏡にすることから始めるのだ。

 私たちの仕事は、自分の鏡を綺麗にピカピカにすることだ。塵が積もっていたら、何も写さない。

 数え切れない生を生きてわたしたちの鏡に塵が積もる。重要なのは、それを取り除くことだ。

 我々は、我々であるものを見る。これ以外の何も見えない。

 私たちが見るのは、常に私たちの投影だ。私たちが見るのは、自分の顔でしかない。

 映写機は内にある。外は、スクリーンでしかない。

 外に神が見えないとすれば、内で聖なる体験をしていないということだ。内で神を知った物は、即座に、あらゆるもののなかに神を見る。そうしか、見えないのだ。

 そうなったら、石の中にさえ神をみるだろう。だが、今のところは神が石にしか見えない。

 石の傍らにたてば、その石の中にさえ自分が見えるだろう。

 記憶と欲望から、自由にならなくてはならない。欲望に対しては、もうこれ以上欲しいものないと言い、記憶に対しては、過去におこったことは、もはや夢に過ぎないといわなくてはならない。

 過去からも、未来からも自分を解き放たなくてはならない。この二つから自由になるとき、私たちのマインドは鏡となる。

 僕たちは、朝起きると今日の仕事を想い、仕事に入ったら、昼はなにを食べようかと想い、午後になったら、帰りに何をしようかを考える。

 今を、生きていないのだ。過去と未来の考えに、今が支配されている。いま、しか生きられないというのに。

 
 

和尚

老子より

 天下の人が皆、美を美と知った時、そこから醜さが起こる。天下の人が皆、善を善と知った時、そこから悪が起こる。

 つまるところ有と無は互いに補い合って成長し、難と易は互いに補い合って完成し、長と短は互いに補いあってコントラストをかもし、音程と声とは互いに補いあってハーモニーを作り、前と後は互いに補いあって結びつく。

 かくして賢者は、行わずして物事を処し、言葉なくして教えを説く。

 万物がそれぞれに生じ、しかも彼はそこから立ち去らない。彼はそれらに生命を与え、しかも我が物にしない。

 彼は行い、しかも着服しない。成して、しかも何一つ手柄を主張しない。

 何も手柄を主張しないからこそ、その手柄は彼から奪い取れないのだ。

 「無思考の境地に到達しろ」そこで初めて、一つになるからだ。

 選ばないこと、無選択でいなさい。この生をありのままに流れさせなさい。

 反対は、本当の反対ではなく、補足なのだ。それらを、分けないこと。

 区分けは、虚構だ。それらは、一つなのだ。

 人生では、がんばらないことだ。ただいる、BEなのだ。

 (空)であれば、あらゆる豊かさがひとりでにあなたのところにやってくるだろう。

 そして、約束することなく、延期することなく、考えることなく、未来について計画することなく、この瞬間に生きるもの、本当にシンプルな生、無垢な生をいきるものは、究極的な恵みがその人から流れ出す一つの媒体となる。


 社会は、どのようにあるべきかということをあなたに与えた。

 それで、あなたは未来の理想に取り付かれて、現在のリアリテイを忘れてしまったのだ。〜べき、〜ねばならばいという言語になってしまった。

 リアリテイは、(ある、IS)だけでできている。

 あなたは、こうあるべきだと思い、自分自身の(ある)と分裂してしまう。

 あなたは、あなたである以外になりようがない。

「私は自分自身である以外はない」ということが、深く浸透したらすべての理想が消えてしまう。と、あなたには分裂がなくなる。


この本も津留さんの考え方に近い。

 プラス思考というのは、二元論であり、必ずマイナスを伴う。磁石はいくらプラスだけ取ろうと思っても、必ずマイナスが付いてしまう。

 物事のいいほうを見ましょうというのが、プラス思考だと思いますが、いがいと辛いこともある。あるがままに見るのではなく、意識的にプラスのほうを見なければという思いがでる。

 いいとか、悪いとかの判断をしない。あるがまま、に

津留晃一さん

本日、英光舎様より津留晃一さんの本を2冊購入。
 いろいろ、津留さんについて書いてきましたが、いまだに一冊も読んでいませんでした。

 この世界は、自分の考え方の 反映である。

 最初のページに、ズバッと核心が書いてある。もっとも、僕はこのことはヌースセオリーで学んでいましたから、全然違和感はありません。

 まさに、この世界は自分の心そのものです。(内面世界)

 このことは、是非多くのかたに理解していただきたい。

 1、現実をつくっているのは

 あなたの与えるものが、あなたの受け取るものです

 これは、誰かの日記に書いてありましたが、年賀状をたくさんもらいたい子供に対しての回答

 年賀状をたくさん貰いたければ、たくさん年賀状をだしなさい。

 これは、きわめて現実てきな回答です。

 結婚式でもお葬式でも、たくさん来てもらいたければ、たくさん出ればいい。

 コメントを多く貰っている人は、間違いなく多くのコメントを書いています。

 「あなたは、あなたの信じているものを見ている」

 お金がないなあという思いが、お金がない現実を作り出す。

 女の子にもてないという思いが、もてない現実を作りだす。学生時代に読んでいれば、もっと青春をエンジョイできたかも。

 2、今、この瞬間がベスト

 幸せになりたいという思いは、今が幸せでないということです。

 ということは、今が完全であるということになりません。

 今が完全であったとしたら、「〜で成功しました」という思いは出てこない。

 成功哲学の「想いは実現する」というのは、真実だと考えていますが、パラドックスがあります。

 想いが実現するということを求めるということは、今がその状態ではないということを意味する。

 望み通りの現実を生み出すには、一つだけ条件があります。それは「あなたの意識に欠落感がない」という条件です。あなたの心が満ちたりているとき、不可能はありません。

 今、満たされているか、不足しているかーそれはあなたの選択にすぎません。

 足りているものに意識の焦点をあわせた人が、満たされた人である。

      今が、完全である。

   このことを信じたときに、絶対的な安心感が生じます。

 3、人は信じるものを見る

 Aさんは、Aさんを見る人の数だけ存在し、絶対的なAさんはいない。

 山田課長は、みんなには優しいのに、私だけにはつらくあたる。私は嫌われているのではないでしょうか?みたいなことって、たくさんあると思います。

 人は人により、顔色が変わります。もちろん、それはこの世界が鏡で出来ているからなのですが、人の数だけ世界観があるからともいえます。

 そうでもなかったら、こんなに結婚する人はいないはず。どうしてあんな人をと、他人に言われてもあなたにとっては、世界一素敵なひとに見えてしまうのだからしょうがない。

 あなたの目の前にいる人は光そのものです。大いなる光が、ただ意識の進化を手助けするために、姿を変えて現れます。

     この世界は、あなたが信じたものを見る世界です。
    
     あなたの観念が、あなたの世界を創造しています

     人は、創造エネルギーそのものです

 4、あるがままに

  英雄が存在するためには、敵役が必要です。

  黒が白を引き立たせ、悪が善を引き立てます

  好きな人と嫌いな人に、自分の意識を分けます

  都合の悪い出来事を受け入れたとき、あなたの意識が広がります
  
  

成功哲学

過去形で願うと、その願いは叶う。

 これが、不思議。たぶん、イメージしなくても、強い想いがあれば言葉だけで叶うと思う。

 言葉には、それだけの力がある。

 だから、言葉を否定的に使うとそのことが実現してしまう。

 人を呪わば、穴二つ。

 この世界が、言葉で出来ているから、言葉に力があるのか。

 言葉とは、音・波動だから虚構の空間にその波動を満たすのか。

 中世とか、貧弱な暮らしをしていたなどど進歩史観で見るけれど、古代・中世では言葉が今より力を持っていた。

 阿部晴明とか、言霊で呪術をして活躍していて最近話題にもなった。


 イメージといえば、こいつだけは会いたくないなあと念じると必ず来る奴がいる。そいつの顔をイメージするから、来るんだなあ。

 うわさをすれば、影。

現実世界とは、自分の意識が作りだしているものなのだ。どのように、お話すれば論理的な説明ができるだろう。皆さんも、たいていの人がいつも同じような悩みを抱えていることには、気づいておられることだろう。

 何故そうしえt同じ人が同じ問題に悩まされつづけることになるのか、不思議に思われたことはないだろうか?

 お金の問題を抱える人は、つねにお金の問題につきまとわれ、人間関係に問題がある人は、いつも人間関係になやまされる。

 まるで、一人ひとりがそれぞれに自分の専門の問題を分担しているように見える。


 自分の問題に気づいている場合も、そうでない場合も、そうした現実は自分の意識が引き寄せているのである。

 そのような状況を生み出す元になる観念を手放さない限り、繰り返し同じ問題にみまわれ続けることになる。

 無意識を明確な意識に変えない限り、それはあなたの歩みを誘導していくことになる。それを、人は運命と呼ぶ。


 スピリチュアルマーテティング ジョー・ビターレ 

それで、ふと思ったんですが、お金持ちになったという言葉を発するいうことは、潜在的にお金持ちではないという思いを生じる。

 作用反作用の関係が、言葉でも生じる。

 私は幸せだと思うと、不幸せという思いが潜在的に生じる。

 そうでないと、この世界自体がめちゃくちゃでまんがな。

 「私が幸せである」から「幸せだなあ」

 「私はついてる」から「ついてる」

 主語をはずすことで、このジレンマから抜けられる。

 
 

見ることの哲学 見るぞパンティ

 他者は自己の鏡像と連続的な存在であり、メルロ・ポンティのいうように、われわれは相互にまなざしを調整して、相手の身体において、わたしの「精神の双生児」を見出すのである。

 双生児ーというのも、われわれはあいかわらず他者の<見ること>そのものの経験をもつことができるわけではなく、<みられること>の対になる自分の<見ること>の変容としてしか他者を理解できない。

 その限りでは、他者のまなざしは、他者そのものというよりは私の経験の一部に過ぎない。
 しかし、他者とは「他の自分」のことではなくーそんな論理的な存在であるわけがなくー多種多様な視線のことであり、それに映される身体のことであるとすれば、他者は、一方では物体とて、他方では第二の自己として、その中間諸段階に応じて、私に対して存在する。

 そのような存在者である他の身体に対して、わたしは、わたしが最初から身体でもあるかぎりにおいてもっている逆転性における他者に、つまり必然的に自己に内在している双子の分身、もう一人の私自身に会うことができる。

 −ドゴン族の神話が教えるように、世界のはじめには双子が存在するのである。

 世界というものを理解するために重要なことは、唯一の主観があって世界の中の物体と他者に向かっているのではなく、私の経験のうちに自由に逆転できる受動性と能動性、自己と他者があり、世界にとけこんでいくわたしの意識と世界から切り取られた明晰な知覚との境界はたえず漂流し、そうした転換のなかで<なすこと>が帰属されるほうが、「自己」と呼ばれるに過ぎないということである。」

 
 主観自身もまた、自己同一的な存在として物体や他者を一義的に認識するのではなく、その内部に鏡像のような双子の分身を持って分裂し、その差異によって、世界の中に奥行きを、つまりそれぞれの物体の厚みと他者の精神を見出す存在である。

 メルロポンティは、その意味で、わたしという主体は「双生児」として生きていると述べたのである。

以上は、本よりの引用です。他者性の概念がわかりにくいところですが、こんな洋服着るとかっこわるいよな、のような考えが自分のなかの他者性です。

 僕は、昨日の日記でも書いたように、見ている世界が私だと考えています。

 そこに、立ち表れる他者も自分自身なのですが、私の身体が鏡で世界を写すように、他者も鏡で世界を写す。

 その他者に向かい会うということは、本当の鏡で自分の顔をみるのと、違いはない。他者のなかに、自分自身を見ているわけです。実際に我々は、瞳(人見)で相手の鏡となっている。

 「双生児」という考え方は、自分のなかのもう一人の自分、それはすなわち他者なのだ。その他者性というのは、もともと持っているのだが、それに同調する他者と向き合うことなしに出現しない。

 できることというのは、何に同調したら、楽しいかということです。

 どんな人でも、ものでも同調できるわけです。それを、見つめるだけでいい。

 我々も、擬態する虫のように、相手を鏡として同調する。

 そのなにを見つめるかという選択により、世界が変わる。

 全く関係ないですが、最近は、本でも「双恋」とかいう双子の本がマニア向けに受けています。

 メルロポンティの語感が、「見るぞパンティ」に似ていると思ったときから、その名前が忘れられなくなりましたね。(笑)
 

サージアスの死神

主人公の華田は、パソコンでイラストの仕事をしている。ありきたりの日常のなか、昼飯を食いに外に出る。

 そこに、水滴が落ちてきた。それとともに、人がビルから落ちてきた。

 頭蓋骨に穴の開いた奴のナミダが、華田をぬらしたのだ。それとともに、彼は落ちてくる人の目をみた。

 ついた血潮を落とすため仕事仲間と銭湯に行き、ひょんなことからギャンブルにいくことになる。

 ルーレットの魔力にはまった華田は、持ち金の全てをルーレットに注ぐ、そして底がつきかねたその時、かれの頭に数字が浮かんだ。26。

 彼は、ルーレットの玉が落ちる場所がみえるようになったのだ。

 これが、小説の出だしなのですが、かなりスピード感があります。

 非常によくできた小説だと思います。ただ、評者がいうように、12人の本の読み手、および公園のランボーの読み手およびその引用は、なんのために入っているのか理解ができなかった。
 それと、途中で入っている数字の羅列の意味がわからない。まさか、意味なしで入れてはいないでしょうね。

 でも、いままでの小説家にない才能を感じさせてくれました。次回の作品が楽しみです。ヌースの種子が、きっと花咲くでしょう。

 まあ、実際恐竜の骨があっても、恐竜はいないこともあるとか、節々にヌースの影響を感じさせてくれます。

 レインマンホムンクルスの影響も入っていますね。

 くれぐれも、頭蓋骨に穴を開けないようお願いいたします。