津留晃一さん

 津留晃一レポートより
これまで人はまず社会というものがあって、その後に自分が生まれ出た、という観点から世界を捉えていました。その観点から見ると、「そうなっているから信じたのだ」と思うでしょう。そこで新しい観点の導入をしてみましょう。視点を変えてみるということです。この世は幻影であり、自分がいて、自分の内側が投影されて外部に映し出されているという観点です。そうすると「もっと勉強しないと立派な人になれません」と言った親はあなたの内側にいます。先生も、社会環境も、あなたの中にあるわけです。ということは、「もっと勉強しないと立派な人になれません」と言っているのは自分以外にはいないということです。とすると、「信じたから現実が起きたのだ」という結論が導かれます。

>あるとき、世界は鏡なのだと気が付いたのだけれど、そのように言っている人を知らなかったから、その気持ちに不安はあった。

 このように、津留晃一さんという先人がこのように言っていてくれたということを、心から嬉しく思う。

 先に、津留さんに出会っていたら、「本当かいな」と疑問をもったかもしれません。自分で「世界は鏡なのだ」と思って、彼の言葉に出会い確信できた。

 もちろん、僕の場合はチャネリングとかではなく、いろいろな本や経験から引き出された結論です。

 この楽天日記を付けているかたで、何人もそのように感じています。それは、ある意味伝染するのかもしれません。

 この世界のありかたを、デカルトのようにとことん疑う。

「なんで俺はこんなにあくせく、働いているのだろう」

「なんで、あいつは出世して俺は出来ないのだろう」

「なんで、恋人が出来ないのだろう」

 例えば、僕たちは毎日働いています。普通、なにも疑問を持たないで、生活するために働くと考えていると思うのですが、観察するといろいろなことがわかってくる。

 まずは、職場の人間関係。嫌な上司がいるとします。他の部署に移動になっても、間違いなく嫌な上司がいます。他の人には、そうでもないのに、あなたにだけは意地悪する。どんな、部署に移動になっても、嫌な上司がいるわけです。
 顔まで似ています。

 「こんな会社辞めてしまおう」と思って、次の会社に移ってもやっぱり嫌な上司に当たるわけです。

 そういうとき「他人は変わらないから、あなたが変わればいいよ」とたいていアドバイスされます。そしてそれは、その通りなのですが、その意味を考えたほうがいい。

 自分の周りの環境というのは、自分の鏡であるから、どこにいってもいやな上司がいるというのは、あなたが鏡を見ているからに他ならない。あなたの鏡だから、どこにいてもあなたを写すわけです。例外は、ありえない。

 人間関係が鏡というのは、なんども書いていますが、挨拶も笑顔も無意識に同時にしたり、話題が人によって変わることなどなど、すべてがそうです。

 世界が自分の鏡、つまり自分の投影だと感じる様になると、世界の見方が変わる。世界に落とされたちっぽけな存在から、世界を作り出す創造主になれるわけです。

 自分の想いが、世界を構築しているわけだから、なんでも想いのままです。

 ただ、世界は鏡でできているから、あなたがいままで自分自身だと思っていたのは、世界を写す鏡でしかない。あなたの本体というのは、あなたが見ている世界です。あなたが、お金持ちになりたいと思ったら、見ている世界を裕福にしなければなれない。

 あなたが、幸せになりたいと思えば、あなたの本体であるあなたの世界に立ち表れる人々を幸せにすればいいことです。

 他者の幸せこそが、あなたの幸せなのです。

 だから、マザーテレサのような人が、幸せなのでしょう。

 私というものが、あなただと知ること、もともと一つなんだと思うことで世界は変わる。

 幸せになるのに、セミナーに行く必要はない。いまここで、すべての身の回りにある環境を幸せとあなたが認めるだけで、一瞬で幸せに包まれる。

 あなたが、周りの環境を認めない限り、いつまでたっても「もっと上があるから、がんばらなくては」という想いが生じ、幸せになることは出来ない。

 青い鳥は、あなたの心にすでにいるのですから、外に求めないで下さい。

 すべては、あなたの心・気持ち次第なのですから。

コトタマ万華鏡

 コトタマ万華鏡 三橋一夫

この本は、コトタマで世界を解釈する本です。読みやすいけれど、一つ一つの言葉の意味を考えているとわけがわからなくなります。

 日月神示とヌース理論、神聖幾何学を結ぶという、画期的な本といえるでしょう。

 この本に昨日書いた、小松英星氏のことが書いてありました。コトタマの本でアセッショウンというのも面白い展開ですが、小松氏のホームページを見て、最近の持論と似ているところがあった。

 ニュースやテレビは、見てはいけない。もちろん、その悲惨な事件について同調してしまうからということだけではなく、洗脳されてしまうからだ。

 我々は歴史で、シュメール文明が最古の文明ということを知っている。しかし、その文明が急に誕生するということの不思議さに疑問を持つことはない。

 なにもないところに、ある文明が誕生することは、ありえないことです。

 そのシュメールの楔形文字を解明したのが、シッチンという学者です。その本を読むと、宇宙からの来訪者が金を取るために地球に入って、等々のことが書いてある。これは、神聖幾何学に書かれていることと、同じことが書いてあります。

 人類以外の生命体はいないということのほうが、不思議と思わないのだろうか。

 近年の天変地異は、地球の次元上昇における陣痛みたいなものの、奔り。

 我々は何度も生まれ変わりをしてきたが、今回からは4次元の霊界が消滅してしまうので、生まれ変わりはなく5次元に移行することになる。

 世界は我々の意識でなりたっているが、それがなくなるということです。

 信じられないような話で、具体的に語ることはできないのですが、それがアセッションなのです。光の波が地球に降り注ぎ、いろいろな人が真実の世界を認識するようになりました。

 物への執着を捨て、奴隷であることをやめ、5次元に移行する準備を始めるときが来ています。

 自分が心から思うことをする、わくわくして時間が止まるようなことをすることが、大切です。〜のために、〜だからではなく、楽しいことは理由がない結果です。

鏡は上下左右ではなく、前後を逆転させる。それは、それぞれ、その方向に矢印を立てれば、わかることだ。

 では、鏡から一メートル離れた位置で、自分の顔をみることにしよう。自分と自分の鏡像の距離は何メートルだろうか?

 2メートル 鏡まで一メートル 鏡の中の僕まで一メートル

 1メートル 実際の鏡までの距離

 二メートルのように感じるけれども、実際の距離というのは一メートルだろう。では、あとの一メートルは何なのだろう。

 幻想であり、錯覚ではないか。

 逆に、僕のほうが鏡の中にいたと想像してみよう。

 やはり、奥行きはないのだ。

 物が立体に見えるということが、奥行きを考える上での始まりだと思うが、二次元の網膜でどうして三次元にみえるのか。

 脳が処理をしているという、唯脳論があるが果たしてそうであろうか。

 もし、そうであれば、ラスコーやエジプトの壁画、日本画の二次元性はどのように考えたらいいのだろう。

 哲学的に、物が立体に見えるというのは、他者の視線ということになっている。

 デカルトが二元論を打ちたて、自己と他者が分かれたときに、錬金術が化学となり、絵画に奥行きが、時間と空間が文章に入り小説が書かれた。

 家の正面に立ったとき、我々はその家に側面と裏があることを見ないでも、知っているのだ。それを見ているのが、他者の視線である。

 「いやいや、僕は家の正面に立っても、側面があるというのは実際に見るまでは信じていないよ」という人には、

 それなら、最初に「家の正面」という考えが生じたのは、どうしてなのだと聞くことが出来る。側面や裏のない家などないのだから。

 しかし、一人で物をみても立体に見えるわけだ。

 ということは、自己の中に他者が存在している。自己の中の他者とは、フロイトのいう超自我、すなわち「こんな洋服買ったら、笑われそう」と思うような他者の考えをすでに我々は持っている。

 自己の欲望が他者の欲望であるように、自己のいろいろな見方(視線)に他者が入っている。

 もともと自己と他者は一緒のもので、そこから分離したので自己の確立したときには、他者の視線を持っている。

 幼児もとき、自己を確立するまでは、平面的な絵しか書くことができす、隣の子供が転んでもないてしまうような頃を誰もが経験しているのだ。

 自己を確立するということは、主体と客体を分けること、すなわち3次元的な空間を作ることに等しい。

 自己の確立=時間と空間の誕生 ということなのだ。

 だから、幼児には時間の感覚がない。今日と昨日の区別がない。いつでも、いま なのだ。

そして、自己が誕生するときに、僕たちは鏡の中にはいるのではないか?

 鏡を見ている僕がいるのではなく、すでに僕たちが鏡の中にいるのではないか?

 だから、私はあなたを写す鏡なのだ。

へろへろ

四足から直立歩行になったとき、お尻がよく見えなくなった。そこで、女性の胸がお尻の様な形になったという。

 花とは、植物の生殖器である。

 以上のことから、人間の顔というのは生殖器の代わりではないかとの推測がされる。

 目 と 口

 女性はこぞって、目と口を化粧する。目と口を目立たせることが、化粧の目的なのだ。

 本能ということが、子孫を残すということならば、顔の形より生殖器に興味がいく。

あべこべの世界

僕たちは、何か原因があって、結果があると思っている。
果たして、そうであろうか?

 今回の列車事故でも、現在わかっているのは結果だけで、正確な原因というのはいまだに調査中である。

 事故があって、初めてその原因があるわけで、
 事故なしに、原因はない。

 いろいろな事件でも、先ず結果ありきではないか。それから、その原因を調べる。先に、原因を特定することは出来ない。

 いろいろな発見や発明でも、最初に結果がわかっていることが多い。それを説明するのに、あとから理由を考えるのだ。

 前にも書いたが、好きになるときには理由なく好きになるという結果が先にある。そして、あとから、やさしいから、とかかわいいから、とかいう理由を付けるのだ。

 お付き合いも「結婚を前提にお付き合いをする」

 付き合った結果ではなく、始めに結婚ありきなのだ。

 巷で流行る「ついてる」という言葉も、先ず「ついてる」ことありきではない。
「ついてる」といいましょうといっているだけなのだ。

 「ついてる」というのは結果である。その原因があとから。生じてしまうのだ。

 とすれば、やはりこの世界は「言葉」が作っていると考えられる。

 物があって、それに名前を付けるのではなく

 名があって、初めて物が創造される。

 言葉があって、その状態が創造されるのだ。

 

 だけど、僕たちは「原因があって結果がある」と思っている。

ヌースセオリー

cave syndrome
より引用
>視野空間(知覚正面)とは全く持って奇妙な空間である。科学的に見れば、視野空間は網膜に映った外界の風景像と見なせよう。しかし、そんな説明はヌース理論の見地からすれば全くの妄想、子供だましにほかならない。いゃ、もっと言っていい。トンデモである。網膜や眼球といった身体的な部分対象は、自らを他者化させて見る眼差しによって初めて存在し得るものだ。ちょうど主体が主体自身を名指すことができないように、主体の目は主体の目を直接見ることなどできない。わたしに目があるという言明は、他者の目を通じてしか行えない。つまり、主体は他者となって、自分にも目があると思い込んでいるだけなのだ。そこまで言っていい?言っていい。その思い込みの延長線上に網膜や水晶体といった観念が作り出される。だいたい科学が行っている説明はこうした他者の眼差しに晒された小賢しい小道具によって事態を解説しているだけである。だから、科学的思考では主体に触れることはできない。主体に触れるということができないということは、われわれの生の現実に触れていないということである

 是非訪問して全文を読んでいただきたいが、私たちは自分の目というのは自分で見ることは出来ない。鏡や他者を見て、自分にも眼があることを確認するだけだ。

さらに引用する
 >さて、もし、主体が自分に目があるなんてバカな思い込みをしなければ、つまり、オレには目なんてないよーん、オレには顔なんてないもーん、オレには首なんてないのよーん、と思い切って英断すれば、主体とは視野空間そのものであったということが、すぐに判明するのだ。いや、もとい、視野空間という言葉も目を前提としているので、もっと別のいい方をしなくてはならない。あー、つまり、現象そのものが主体なのだ。まぁ、こんなことは20世紀の現象学が言い出したことで、いまさら新しくも何ともないのだが

 こういうことを、どの現象学者がいっているかはわからぬが(おそらくメルロ・ポンティ当たりだろうとは察するけれども)、私とは自分が見ているものそのものなのである。

 その前提として、自分の視野空間というのは自分だけの物で決して他者と共有できないということがある。今この場所で、この空間を見つめているのは私だけなのだから。

 ということは、自分の視野空間の発生が、自己と他者の分離ということになる。幼児期、僕たちが記憶を持たない頃というのは、自他の区別がない自然とともにあった。人によって差はあるが、小学校の低学年までの絵は平面的である

 徐々に自己が自然から分離し、奥行きのある絵が描けるようになる。それが、自己の発生なのだが、その時に固有の自己の空間が生まれる。

 それ以前の幼児の絵をみると、キュビズムの絵のように視点がいろいろな角度で書かれているものが多く見られる。それは、テーブルをかこんで家族が座っている
のに、家族全員の顔が正面から描かれたりするようなものが代表的だろう。

 世界を他者と共有しているのだ。他者の視点でものが見えている。

 彼らは、記憶がないのでその瞬間を生きている。

 脳が発達し記憶が出来るようになると、自己が発生始め自然との分離が始まる。

 記憶が出来てから、僕たちが見てきたものというのは、誰とも共有できない僕自身の視点による世界空間なのだ。それが、僕自身なのである。

 私とは、私の世界のことである。  ウィトゲンシュタイン
 

 

鏡と皮膚 谷川渥

 僕は、「世界は鏡である」と主張しているため、鏡というタイトルがつくだけで手にとってしまう。

 この本は、スリリングでわくわくさせてくれる本です。

 瞳とは人見である。他者の目を見ると、確かに瞳に、私が写っている。

 相手はその瞳を通じて、私である人物を認識している。

 では、私の瞳には何が写っているのだろうか。

 当然、相手の顔が写っているはずだ。

 目と目を合わせるということは、鏡を二つ合わせるように、無限の距離が感じる。
だから、目を見て話すということは不安になる。

 本文は、オルフェスから始まる。

 オルフェウスとは、竪琴引きで蛇に噛まれて死んだ妻エウリュデーケ冥界に取り戻しに行く。ハーデスとペルセポネーの前で竪琴を奏でると、冥界のあらゆる物を魅了した。
 イクシオンの車輪は回転を止め、タンタロスは自らの乾きを忘れ、シーシュポスの岩は静止し、ダナオスの娘たちは水を汲むのをやめた。

 そして、オルフェウスが後ろを振り向かないとの条件で、エウリュデーケの帰還を許された。しかし、まさに地上に出ようとしたそのときに、オルフェウスは後ろを振り向いてしまう。そして、エウリュデーケはまた冥界に戻されてしまうのだ。