和尚

 心が鏡のようになったとき、私たちは神を見ることが出来るだろう。その時、全世界が私たちの中に入ってくる。そしてまた、全世界が私たちを写す鏡となる。

 すると、いつでもどこでも自分自身が見られるようになる。しかし、全世界を鏡とすることは出来ない。

 できるのは、私たち自身を鏡にすることだけだ。だからこそ、真理の探究者は自分を鏡にすることから始めるのだ。

 私たちの仕事は、自分の鏡を綺麗にピカピカにすることだ。塵が積もっていたら、何も写さない。

 数え切れない生を生きてわたしたちの鏡に塵が積もる。重要なのは、それを取り除くことだ。

 我々は、我々であるものを見る。これ以外の何も見えない。

 私たちが見るのは、常に私たちの投影だ。私たちが見るのは、自分の顔でしかない。

 映写機は内にある。外は、スクリーンでしかない。

 外に神が見えないとすれば、内で聖なる体験をしていないということだ。内で神を知った物は、即座に、あらゆるもののなかに神を見る。そうしか、見えないのだ。

 そうなったら、石の中にさえ神をみるだろう。だが、今のところは神が石にしか見えない。

 石の傍らにたてば、その石の中にさえ自分が見えるだろう。

 記憶と欲望から、自由にならなくてはならない。欲望に対しては、もうこれ以上欲しいものないと言い、記憶に対しては、過去におこったことは、もはや夢に過ぎないといわなくてはならない。

 過去からも、未来からも自分を解き放たなくてはならない。この二つから自由になるとき、私たちのマインドは鏡となる。

 僕たちは、朝起きると今日の仕事を想い、仕事に入ったら、昼はなにを食べようかと想い、午後になったら、帰りに何をしようかを考える。

 今を、生きていないのだ。過去と未来の考えに、今が支配されている。いま、しか生きられないというのに。