幻覚の構造 藤田博史
僕たちは、手で何かを触るということは、その何かに触られていることだ。雑巾で掃除をするのは、雑巾で拭いているのと廊下が雑巾を拭いているのと同じこと。
視点の違いしかない。自分で声を出せば、聞こえるし、おならをすれば臭う。
しかし、モノを見つめていて、見つめられるのか、これがこの本の出発点ともいえる。
難解な本なので、引用から
夢は幻覚である。夢が<眠って見る幻覚>ならば、幻覚は<覚めて見る夢>である。
意識もまた幻覚であり、意識は眠ることによって、夢に置き換わる。
私たちが析出させているすべての構造は、基本的に夢であり、幻覚である。
わたしたちは、日常のなかで、きわめて素朴に、目の前に見え、聞こえている世界が当たり前のものと、信じていきている。
日常のなかでは、風景に奥行きがあったり、音と声がことなったものであるということは、自明である。
世界は「そのようなもの」としてそこにある。
日常の経験によって築かれた世界は、「信じる」という行為によって「自明」とされている。
ところが、精神分析学の経験がわたしたちに教えてくれることは、「世界は各々が心に抱いているようなものではまったくない」(ラカン)
わたしたちは限られた差異性によって、世界を再構築しているに過ぎない。
たとえば、わたしたちの知覚は磁場も超音波も電波もとらえることはできないのである。
世界とは限られた情報によって再構成されたとりあえずの具体性でしかありえない。
そして、わたしたちは日常のなかで、このことに気づかないでいるか、もしくは忘れている。
引用終わり
私が目の前のりんごを見る。そのとき、私もりんごから見つめられている。
部屋の中の少し離れた本を一冊見るとしよう。僕はその本の焦点を合わせて本を見るが、そのとき僕は部屋から見られている。
森の中に一人で居るときに、森の木々に見つめられている気がするといった作家もいたし、僕もそういう経験をしたことがある。
これを、私から見た円錐と世界側から見た円錐を交差円錐として、論じているが、絵が書けないのでご了承いただきたい。
重要なのは、私がりんごを見るとき、本当の私はりんご側から私を見ている、りんごを見ている私の目は他者の目なのだ。
私は見つめることにより、見つめられる存在なのだ。
私は、モノから目に入る光。それが、世界の表象であり、私の世界。
見つめるものと見つめられるものは、本来分かれていないのだ。
真実の私は世界側から、私を見る