見ることの哲学 見るぞパンティ

 他者は自己の鏡像と連続的な存在であり、メルロ・ポンティのいうように、われわれは相互にまなざしを調整して、相手の身体において、わたしの「精神の双生児」を見出すのである。

 双生児ーというのも、われわれはあいかわらず他者の<見ること>そのものの経験をもつことができるわけではなく、<みられること>の対になる自分の<見ること>の変容としてしか他者を理解できない。

 その限りでは、他者のまなざしは、他者そのものというよりは私の経験の一部に過ぎない。
 しかし、他者とは「他の自分」のことではなくーそんな論理的な存在であるわけがなくー多種多様な視線のことであり、それに映される身体のことであるとすれば、他者は、一方では物体とて、他方では第二の自己として、その中間諸段階に応じて、私に対して存在する。

 そのような存在者である他の身体に対して、わたしは、わたしが最初から身体でもあるかぎりにおいてもっている逆転性における他者に、つまり必然的に自己に内在している双子の分身、もう一人の私自身に会うことができる。

 −ドゴン族の神話が教えるように、世界のはじめには双子が存在するのである。

 世界というものを理解するために重要なことは、唯一の主観があって世界の中の物体と他者に向かっているのではなく、私の経験のうちに自由に逆転できる受動性と能動性、自己と他者があり、世界にとけこんでいくわたしの意識と世界から切り取られた明晰な知覚との境界はたえず漂流し、そうした転換のなかで<なすこと>が帰属されるほうが、「自己」と呼ばれるに過ぎないということである。」

 
 主観自身もまた、自己同一的な存在として物体や他者を一義的に認識するのではなく、その内部に鏡像のような双子の分身を持って分裂し、その差異によって、世界の中に奥行きを、つまりそれぞれの物体の厚みと他者の精神を見出す存在である。

 メルロポンティは、その意味で、わたしという主体は「双生児」として生きていると述べたのである。

以上は、本よりの引用です。他者性の概念がわかりにくいところですが、こんな洋服着るとかっこわるいよな、のような考えが自分のなかの他者性です。

 僕は、昨日の日記でも書いたように、見ている世界が私だと考えています。

 そこに、立ち表れる他者も自分自身なのですが、私の身体が鏡で世界を写すように、他者も鏡で世界を写す。

 その他者に向かい会うということは、本当の鏡で自分の顔をみるのと、違いはない。他者のなかに、自分自身を見ているわけです。実際に我々は、瞳(人見)で相手の鏡となっている。

 「双生児」という考え方は、自分のなかのもう一人の自分、それはすなわち他者なのだ。その他者性というのは、もともと持っているのだが、それに同調する他者と向き合うことなしに出現しない。

 できることというのは、何に同調したら、楽しいかということです。

 どんな人でも、ものでも同調できるわけです。それを、見つめるだけでいい。

 我々も、擬態する虫のように、相手を鏡として同調する。

 そのなにを見つめるかという選択により、世界が変わる。

 全く関係ないですが、最近は、本でも「双恋」とかいう双子の本がマニア向けに受けています。

 メルロポンティの語感が、「見るぞパンティ」に似ていると思ったときから、その名前が忘れられなくなりましたね。(笑)