ヌースセオリー

cave syndrome
より引用
>視野空間(知覚正面)とは全く持って奇妙な空間である。科学的に見れば、視野空間は網膜に映った外界の風景像と見なせよう。しかし、そんな説明はヌース理論の見地からすれば全くの妄想、子供だましにほかならない。いゃ、もっと言っていい。トンデモである。網膜や眼球といった身体的な部分対象は、自らを他者化させて見る眼差しによって初めて存在し得るものだ。ちょうど主体が主体自身を名指すことができないように、主体の目は主体の目を直接見ることなどできない。わたしに目があるという言明は、他者の目を通じてしか行えない。つまり、主体は他者となって、自分にも目があると思い込んでいるだけなのだ。そこまで言っていい?言っていい。その思い込みの延長線上に網膜や水晶体といった観念が作り出される。だいたい科学が行っている説明はこうした他者の眼差しに晒された小賢しい小道具によって事態を解説しているだけである。だから、科学的思考では主体に触れることはできない。主体に触れるということができないということは、われわれの生の現実に触れていないということである

 是非訪問して全文を読んでいただきたいが、私たちは自分の目というのは自分で見ることは出来ない。鏡や他者を見て、自分にも眼があることを確認するだけだ。

さらに引用する
 >さて、もし、主体が自分に目があるなんてバカな思い込みをしなければ、つまり、オレには目なんてないよーん、オレには顔なんてないもーん、オレには首なんてないのよーん、と思い切って英断すれば、主体とは視野空間そのものであったということが、すぐに判明するのだ。いや、もとい、視野空間という言葉も目を前提としているので、もっと別のいい方をしなくてはならない。あー、つまり、現象そのものが主体なのだ。まぁ、こんなことは20世紀の現象学が言い出したことで、いまさら新しくも何ともないのだが

 こういうことを、どの現象学者がいっているかはわからぬが(おそらくメルロ・ポンティ当たりだろうとは察するけれども)、私とは自分が見ているものそのものなのである。

 その前提として、自分の視野空間というのは自分だけの物で決して他者と共有できないということがある。今この場所で、この空間を見つめているのは私だけなのだから。

 ということは、自分の視野空間の発生が、自己と他者の分離ということになる。幼児期、僕たちが記憶を持たない頃というのは、自他の区別がない自然とともにあった。人によって差はあるが、小学校の低学年までの絵は平面的である

 徐々に自己が自然から分離し、奥行きのある絵が描けるようになる。それが、自己の発生なのだが、その時に固有の自己の空間が生まれる。

 それ以前の幼児の絵をみると、キュビズムの絵のように視点がいろいろな角度で書かれているものが多く見られる。それは、テーブルをかこんで家族が座っている
のに、家族全員の顔が正面から描かれたりするようなものが代表的だろう。

 世界を他者と共有しているのだ。他者の視点でものが見えている。

 彼らは、記憶がないのでその瞬間を生きている。

 脳が発達し記憶が出来るようになると、自己が発生始め自然との分離が始まる。

 記憶が出来てから、僕たちが見てきたものというのは、誰とも共有できない僕自身の視点による世界空間なのだ。それが、僕自身なのである。

 私とは、私の世界のことである。  ウィトゲンシュタイン