鏡は上下左右ではなく、前後を逆転させる。それは、それぞれ、その方向に矢印を立てれば、わかることだ。

 では、鏡から一メートル離れた位置で、自分の顔をみることにしよう。自分と自分の鏡像の距離は何メートルだろうか?

 2メートル 鏡まで一メートル 鏡の中の僕まで一メートル

 1メートル 実際の鏡までの距離

 二メートルのように感じるけれども、実際の距離というのは一メートルだろう。では、あとの一メートルは何なのだろう。

 幻想であり、錯覚ではないか。

 逆に、僕のほうが鏡の中にいたと想像してみよう。

 やはり、奥行きはないのだ。

 物が立体に見えるということが、奥行きを考える上での始まりだと思うが、二次元の網膜でどうして三次元にみえるのか。

 脳が処理をしているという、唯脳論があるが果たしてそうであろうか。

 もし、そうであれば、ラスコーやエジプトの壁画、日本画の二次元性はどのように考えたらいいのだろう。

 哲学的に、物が立体に見えるというのは、他者の視線ということになっている。

 デカルトが二元論を打ちたて、自己と他者が分かれたときに、錬金術が化学となり、絵画に奥行きが、時間と空間が文章に入り小説が書かれた。

 家の正面に立ったとき、我々はその家に側面と裏があることを見ないでも、知っているのだ。それを見ているのが、他者の視線である。

 「いやいや、僕は家の正面に立っても、側面があるというのは実際に見るまでは信じていないよ」という人には、

 それなら、最初に「家の正面」という考えが生じたのは、どうしてなのだと聞くことが出来る。側面や裏のない家などないのだから。

 しかし、一人で物をみても立体に見えるわけだ。

 ということは、自己の中に他者が存在している。自己の中の他者とは、フロイトのいう超自我、すなわち「こんな洋服買ったら、笑われそう」と思うような他者の考えをすでに我々は持っている。

 自己の欲望が他者の欲望であるように、自己のいろいろな見方(視線)に他者が入っている。

 もともと自己と他者は一緒のもので、そこから分離したので自己の確立したときには、他者の視線を持っている。

 幼児もとき、自己を確立するまでは、平面的な絵しか書くことができす、隣の子供が転んでもないてしまうような頃を誰もが経験しているのだ。

 自己を確立するということは、主体と客体を分けること、すなわち3次元的な空間を作ることに等しい。

 自己の確立=時間と空間の誕生 ということなのだ。

 だから、幼児には時間の感覚がない。今日と昨日の区別がない。いつでも、いま なのだ。

そして、自己が誕生するときに、僕たちは鏡の中にはいるのではないか?

 鏡を見ている僕がいるのではなく、すでに僕たちが鏡の中にいるのではないか?

 だから、私はあなたを写す鏡なのだ。